2012年9月14日金曜日


日韓関係の改善のために(25)「砲艦外交に出た日本(20120914)

 日本の政府は李朝の態度に遂に堪忍袋の緒を切ってしまった。似たようなことが韓国により竹島が不法占拠されている問題やいわゆる慰安婦問題等で将来起きないとも限らない。そうなれば日韓両国民にとって不幸である。ここに『韓国人の仕組み』(小倉紀藏著、講談社現代新書)がある。この本のページをめくってみると、“伝統社会にあっては、上層階級こそが<理>を顕現できたのであり、民衆は<気>のみ<気>のままで生きていたわけです。この民衆層は当然感情を露骨に表す層です。韓国は<気の民衆>が長い間そのまま存在してきました。・・(中略)・・韓国もやがて高学歴化や都市化などによって、この<気>のみ<気>のままの階層はだんだんと少なくなってゆくに違いないのです”と書かれている。将来の日韓関係に希望が持てそうである。

 引き続き 善花著『韓国併合への道 完全版』第二章「朝鮮の門戸を押し開けた日本」の中の「砲艦外交に出た日本」という見出しがある部分全文を括弧(“”)で引用する。
“李朝の態度に業を煮やした日本政府は、打開策として李朝を威圧し国論を揺さぶろうとの政策に出るようになる。
 一八七五年(明治八)五月、日本政府は雲揚(二四五トン)と第二丁卯(一二五トン)の小砲艦を釜山に派遣して、一方的な発砲演習を行わせる示威行動をとった。

 続いて九月二〇日、日本政府は沿海測量の名目で雲揚を朝鮮半島の江華島に向かわせる。雲揚は江華島と半島との間の江華水道の河口付近で停泊し、その先は兵士らがボートに乗って江華水道を遡行した。水道の幅は二〇〇~三〇〇メートルと狭く、北は漢江、南は黄海に通じる要所で、沿岸各所に要塞があり砲台が設けられている。飲料水を求めるためとされるが、この内国河川への無断侵入は明らかな挑発行為である。

 要塞の一つ、草芝鎮台から砲撃が開始されると、雲揚も水道に入り応戦する。砲台からの弾丸は船に届かず、草芝鎮台は雲揚の砲撃を受けて甚大な被害を受けた。しかし退潮時のために、雲揚は兵員たちを上陸させることができなかった。

 雲揚は次に、江華島のすぐ南にある永宗鎮台を急襲した。次から次へと砲撃を受けて永宗鎮台は陥落、六〇〇名の守備兵はほとんど戦うことなく逃走してしまった。上陸した日本の将兵たちは城内と付近の民家を焼き払い、大砲三八門をはじめ、残された兵器類を押収して帰船した。李朝側の死者三五名、捕虜一六名、日本側の死者一名、負傷者一名だったと言われる。

この不祥事について、平壌を管轄する京幾道の監司(長官)も江華留守(守備武官)も、また付近の海陸防衛地をあずかる官憲たちも中央に対して何の報告もしなかった。責任逃れという以前に、もはやシステムそのものが麻痺状態にあったことがうかがわれる。”(続く)