2009年11月7日土曜日



日本人の起源とヤマト王権(その1)(20091107)

 男は神武天皇のご出身地・宮崎を旅して日本人の起源について考えてみた。『Newton 最新版「日本人の起源」』によれば、人類が日本列島にやってきたのは5万~4万年前であるという。以下その資料から引用する。

 最初に日本列島にやってきたルートはマンモスなど大型の哺乳類を追って北海道にやってきただろう。人骨の形態や石器などからそれら旧石器時代の人々は、後に縄文人と言われる14千年前に南方ルートや朝鮮半島経由ルートやシベリヤ経由北方ルートから入ってきた人々と入れ替わりがあった可能性がある。

 縄文人に似た人々は今のところ日本以外の東アジアでは確認されておらず、日本では北海道のアイヌの人たちだけが縄文人との類似が指摘されている。ただしアイヌの人々はDNAの形から単純に縄文人の子孫ではないことが判っている。このことから縄文人はアフリカを旅だった人々が現在のアフリカ人やヨーロッパ人やアジア人に分化する以前の古い形態をもった人々であり、彼らは人類の拡散の早い時期に東アジアに到達した。その後シベリヤで寒冷地に適応した北方系アジア人の南下によって駆逐されたようである。なお縄文人に似た人々は日本以外では残っていないが、縄文人の頭蓋骨の形に似た人としては1万2000年前から6800年前のオーストラリアで発見されたキーロー人やアメリカのワシントン州で発見された約8400年前のケネウイックマンがいる。

 3000年前以降大陸から北九州付近にDNA上で縄文人とは明らかに異なる渡来系弥生人がやってきた。彼らは稲作の起源地の可能性が高い長江中・下流域(中国中南部)の人々で、春秋・戦国時代(紀元前770年から紀元前222年)の人々の骨が彼ら渡来系弥生人の骨と似ている。以上が資料『Newton』に書かれていることである。

 長江河口から東に向かうと九州南部に辿りつく。長江中流域には黄河文明より1000年古い文明が栄えていた。その文明は稲作・漁労文明であり、北方漢民族の狩猟・畑作文明の人々の圧迫を受けて両文明が混合しながら一部の人々は戦乱を逃れて日本にやってきて沖縄や九州の南部で縄文人と交流し混血していったのであろう。彼らは造船と航海、それに漁労に長けていたらしい。そういう人たちの一団は後に朝鮮半島経由で九州北部にやってきた渡来系弥生人とも交流し、各地に王が統治する国が誕生したと考えられる。(参考資料:『日本古代のルーツ 長江文明の謎』安田喜憲著、青春出版社及び上記『Newton』)

 男は、カムヤマトイワレビコ(後の神武天皇)は日向に本拠を置く王の一人であり、長江中流域の文明をもつ集団を統治していたのであろうと考える。彼は兄・イツセノミコトと一緒に新天地を求めて水軍を組織し、その力で豊後の宇佐や吉備など畿内に向かう航路の要所の王たちを服従させながら畿内に入りヤマト王権の基礎を作ったのだと思う。

 6世紀ごろまでは各地に王がいてヤマト王権は確立されていなかったが、推古天皇(592年~628年)の御世に隋に使いを送るようになって各地の王国を支配下に収めるようになり、初めてヤマト王権が確立するようになったのだと思う。

 何千年という長い年月の間、日本人の起源の人々の間で混血が進み、皆多かれ少なかれ血がつながっているのだ。そういう中で約2000年前日本にやってきた渡来系弥生人にはDNAの形の上で東北の縄文人や現在の日本人が持っているM7aN9bという遺伝子情報がない。しかし渡来系弥生人の影響が少なかったM7aは北海道のアイヌの人たちと沖縄の人たちにはそれが多く残っているという。しかしDNA上皆血がつながっている同胞であるのだ。