2009年12月10日木曜日

老楽は唯至善を行うにあり(20091210)

 題名の言葉は、西行(俗名:佐藤義清(さとう のりきよ、憲清、則清、範清とも書く。)1118 - 1190年、平安末期から鎌倉初期にかけての武士・僧侶・歌人。)が遺した詩の一節である。西行は生前;

  ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ (山家集)
という歌を作っており、その歌のとおり陰暦の2月である如月(きさらぎ)の満月に近い日(陰暦216日)、釈尊涅槃の日に73歳で没したといわれている。ちなみに陰暦で月齢14日を小望月(にもちづき)と言う。

 西行の『至善』という作詩は以下の訓読のとおりである。このブログの831日の記事「至善(20090831)」に書いているが再掲する。

 晴れに非ず 雨に非ず 睡蓮の天
  山に非ず 林に非ず 在家の仙
  一日を一生として 興究(きょうきわま)りなし
  老楽は唯至善を行うにあり

 この詩の意味を、男は以下のとおり解釈した。もともとこの詩には解釈が付されているわけではないので、男は自分の仏教に対する考え方に基づき解釈しているものである。従って今後解釈を改めるかもしれない。この詩は男が主宰している詩吟の会のテキストの来年月の吟題である。男は近いうちブログ『吟詠』にこの詩の吟詠をアップロードする。

  池の睡蓮は天候に関係なく時期がくれば咲いている。
自分は山中に住む仙人でもなく、林の中に庵を構えている僧でもなく、
在家の身でありながら不老不死の術を心得ている仙人のようである。
(明日白骨になるかもしれないわが身は生老病死の四苦から
        絶対に逃れる  ことはできず、怨みや憎みに会う苦、愛する人と
        別離する苦、求める  ことが
得られない苦、要するに生きている
        間中苦から逃れることはできず、逃れようとして求める一時的
        快楽も結局は苦を作る身である。)
そのように達観すれば、一日が一生のように今この時生きている自分の日々は、面白おかしいことばかりである。
  従って、老人の楽しみは、唯一つ、自分が最も善いと信じることを行うこと
    であり、自分はその楽しみの中にあるのである。

 男は久しぶり声を出してこの詩を吟じ、録音し、再生して自分の吟を聴いてみた。全身に精気が漲っていないせいか、年のせいか自分の声にかつてのような‘張り’‘艶’がない。しかし「至善を行う」ことに越したことはないと思う。声を出して詠うことは精気を漲らせるよい方法なので、男は日中の時間を決めて毎日詠うことにした。