2010年10月5日火曜日

母・ともゑ (20101005)


  そのほか、同じタイトルの記事から以下のとおり同様に引用する。この記事が書かれた時点では防衛庁(現在の防衛省)及び陸上自衛隊駐屯地は市ヶ谷にあった。

  金貞烈将軍、日本陸軍士官学校(五十四期)、航空士官学校戦闘機科卒業、大東亜戦争はフィリピン作戦で武勲を上げ、三式戦「飛燕」の戦闘隊長として南方戦線で活躍した日本陸軍大尉。韓国空軍生みの親といわれる。

  李亨根将軍、日本陸軍士官学校(五十六期)、韓国軍第三軍団長として朝鮮戦争で武勇を馳せる。新宿区市ヶ谷台の自衛隊駐屯地(現防衛庁)に桂の木が植えられている。その傍らに立つ標柱には下記の言葉が書かれている。

    表面「桂恩師のために 第五十六期生 李亨根」、裏面「韓国陸軍大将」、側面「一九六八年 四月二十五日 韓国京城」。そして、一九九三年(平成五年)十二月、同期生の蔵田十紀二氏に宛てた書簡として「故桂区隊長殿の御逝去で悲痛窮りない気持ちです。特に御遺族様の御心境を思う時、胸の裂ける思いです。貴兄のこともしばしばお話しておられました。お互い健康に留意し志気旺盛に務めましょう・・・・・・」

  李亨根将軍とともに陸士五十六期として昭和十四年十二月一日に入学した総人数約二千四百名のうち千名近い戦死者を出している。同期入校者には四名の朝鮮出身者が含まれている。その中のおひとりに崔貞根少佐がおられる。

  崔貞根少佐(日本名 高山昇)は日本陸軍士官学校、航空士官学校と進み、卒業後、飛行第六十六戦隊(九十九式襲撃機部隊)に配属、フィリピンのレイテ沖作戦に参戦後、沖縄作戦に参加、昭和二十年四月二日、敵駆逐艦に体当たり散華した。二階級特進にて少佐、崔貞根少佐は陸軍士官学校在校中、同期生のひとりに「俺は天皇陛下のために死ぬということはできぬ」と、その心情を吐露したという。(同期生追悼録「礎」より)

  同期の齋藤五郎氏は陸士の同期会で、李亨根氏にただしたところ、「その気持ちは貴様たちには判らんだろうなあ、それが判るときが、両国の本当の友好がうまれるときだ」と答えたそうである。

 

  日韓併合など近代の歴史について、信輔はこれまで殆ど学んで来なかった。今70歳前後以降の日本人は東京裁判の結果植えつけられた自虐的歴史観により、自分たちの父祖が悪いことをしてきたと思い込んでいる人たちが多い。信輔自身は自分の子供時代の体験から、そのような立場に対して常に批判的であった。

  母・ともゑが今際の時、「御仏壇からお線香を取ってきておくれ」「東を向けておくれ」と言った意味を、信輔はこの齢・73歳になって初めて理解している。ともゑはなぜ「東を向けておくれ」といったのか。その方向は極楽の世界があるとされる西方浄土の方向ではない。その真反対である。地理的には皇居がある東の京の方向である。ともゑは今際の時、遺してゆく信輔に対して意図的に自分をその方角に向けよと指示したのである。

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