2009年12月27日日曜日

お陰さまで(20091227)

 よく日常の挨拶で「お陰をもちまして」とか「お陰さまで」と言う。普通この言葉の深い意味は考えずにこの言葉は使われている。例えば「陰で支えてくれた人への感謝」とか「お互い様」という意味の程度で使われていることが殆どのようである。「お陰さま」についてインターネットで調べてみたらある僧侶が「法話」を載せているのを見つけた。

 「人生には自分の思いにかなうこともかなわぬことも起こって来る。人生で起きて来るすべてのこと謙虚に受け止める言葉として‘お陰さまで’という言葉がある。目に見える現実世界を陽とすれば目に見えぬ世界は陰である。人生で起きるすべてのことを目に見えない世界からの導きとして受け止められるようになったとき‘お陰さまで’という言葉が出て来る。‘お陰さま’は‘仏様’である。」という趣旨のことをこの僧侶は図を示しながら説いている。

 その図というのは五感・意識の世界が現実世界であり、その世界の下に深層心理の世界を示している。以下男は自分が若い頃に買い求めていた書物『仏教の基礎知識』『仏教要語の基礎知識』(いずれも水野弘元著、春秋社刊)に書かれていることを基に要点を記す。

 五感・意識とは仏教の唯識説で眼識、耳識、鼻識、舌識、身識の五識と意識のことである。これら六つの識、すなわち六識は現実世界の識であり、唯識説ではその下に末那識(マナ識)、さらにその下に阿頼耶識(アラヤ識)の二つの識があると説く。マナ識とアラヤ識は深層心理学上の識と同じである。2500年前釈尊は深い瞑想の結果、現代の心理学で明らかにされた深層心理まで到達されたのである。釈尊は常人では到底到達できないところまで到達され、常人では認識できない世界を認識され、弟子たちに説かれたのだと男は思う。

 お陰さまの世界は現実世界の六識と第七識であるマナ識と第八識であるアラヤ識を総合した世界の中にあるのである。深層心理学の書物には「集合的無意識」について書かれている。人の行動は無意識の行動の部分が大きい。人は自分の無意識を自分で認識することは難しい。第八識ともなれば第三者から催眠をかけられて導かれないと自分では判らない。多分、長い時間をかけた習慣により無意識化されたものには気付くことができるだろうが、その下にある、多分生れる前から持っている心には、自分で気付くことはできないのだ。まして、これは信仰しかないと男は確信するが、仏を信じる者には本心から「有り難い」「お陰さまである」という気持ちが湧くものだと思う。

 仏教の経典には「仏は方便をもって人々を教化し導く」というようなことが書かれている。仏の方便は日々の暮らしで常に感じ取ることができる。素直に意識すれば「ああ、これも仏の方便だったのだ。有り難い。」と感じ取ることが出来るようになる。そのように感じ取ることができれば、日々の暮らしで起きることは皆有り難く、有り難いと思うと、物事は思うとおりになっているような‘不思議’を感じることができるようになる。「たまたま偶然」は、実は仏の導きによる「必然」であったのだと感謝することができる。すると日々のすべてのことは仏による「必然」のことで、これが‘不思議’なことであるのである。

 仏は釈尊にしか到達できなかった世界である。仏を信じ、仏に帰依し、仏への道を教える僧を敬い、仏への道を教える経典を重んじ、仏への信心をもって日々謙虚に、感謝の気持ちで過ごすことができれば、それ以上幸せな人生はないのである。
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